●2004年7月

自治基本条例がくつがえす「国家観」
(7月31日)
市民立法機構主催の「市民と議員の条例づくり交流会」に参加しました。
今年のテーマは「”地方公共団体”から”自治体”へ」。
すでに「住民自治」を自治体の基本とする首長や議会の中で、地域の憲法ともいうべき「自治基本条例」を制定する動きが生まれてきています。地域レベルで「自分たちのことは自分たち決める」という意識が高くなり、「草の根民主主義」が徹底していくことによって、国から都道府県、都道府県から市町村、市町村から自治会、という従来の政策決定などの流れを、逆に向けることができるのだと、基調講演を聞きながら思いました。
中学・高校で習ったていどの古代史の知識しか持ち合わせていませんが、国家の成り立ちには、自分たちの集落、部族を外敵から守るという側面と、広い意味での「福祉国家」とでもいうべき、「自分たちで支えきれないところを支えあう」という側面があるように思います。
この二つの国家観をどう共存させていくのか、これは国など、上から押し付けられるものではなく、国民的合意形成をまたなければならないでしょう。「草の根からの立憲」というスタンスがなければ、「改憲論」の力に圧倒される時期がくるだとうろ、ふと思いました。
分科会は「都市計画における市民立法の現状と可能性」に参加。
さまざまな角度から、住民参加がお飾りでなく、「都市計画」決定そのもののプロセスの中に、「住民参加」が保証されるためのツールとしての法の使いこなしかた、必要な条例のつくりかたなどが検証されました。
圧巻はその後、具体例として示された「千代田区六番町の住民主導による地区計画づくり」でした。
行政が示した地区計画に反対を唱えたのは、最初は六番町で生まれて育った3人の女性だったとか。そのエネルギーが地域をまきこみ、「自分たちが感じて育った、音、光、においをこの町か失いたくない」というモチベーションが、地区計画そのものを根底からくつがえし、大規模マンションが濫立する街にしない、地区計画を産んだとのことです。
地権者の財産権や、区の税収に関わってくる「地区計画」、これを住民主体でつくるために費やした13年の時間とエネルギー、感服するばかりです。
それとともに、地域を愛することの情熱を、うらやましくも思いました。
ところで、この「地区計画」に対する議会の関わりは、との質問に、「議会は、反対・賛成、両派の陳情合戦にまきこまれていただけ」、とのこと。住民側が号を煮やして、自分達の代表を議会に送ったというのもうなずけます。
それにしても、一昨日の「自然エネルギー」の問題同様、今日の分科会を仕切ったのは、30代の若手の都市計画を専門とする学者たちでした。若い世代の、現場とともに、という姿勢が、日本の街づくりを変えていく可能性を感じた半日でした。
夜は、認可のおりたNPO「かすかべ長屋」の懇親会。
多世代交流を目的とする、このNPO、どんな活動が展開できるのか、これからが正念場です。
立ち上げ記念として、9月11日(土)、地域で活動している諸先輩団体をお招きして、「自分たちの地域は自分たちでつくる」(仮題)シンポジウムを行うことになりました。

自然エネルギー促進が国際的な政策課題なのに
(7月29日)
衆議院議員会館で開かれた、「自然エネルギー2004ボン国際会議報告会」に参加してきました。
国際会議に出席した、様々な立場の方々の報告は、いずれも興味深いものでしたが、いずれの方々の発言の中にも「再生可能エネルギーを100%利用することによってしか、持続可能な社会はできない」というのが世界の常識になっている、という共通認識がありました。
問題は、いつまでに100%にするか、という点に移っているのだそうです。
今まで、環境問題や自然エネルギーの問題は、NPOやNGO主導で動いてきたかのような感がありますが、今年の国際会議からは政治・政策が大きく関わろうとしている意欲が感じられたとのことです。
それは、国会議員会議に出席した河野太郎衆議院議員の報告にもあらわれていました。なんと、河野代議士は、
「日本は再生可能エネルギーを論じる前に、原子力発電を何とかしないと前に進まないことを実感した」ときっぱりおっしゃいました。すでに世界の趨勢は「原発を止める」などは常識中の常識になっていて、脱原発など、会議のテーマにもならないことを知り、日本のエネルギー政策の後進性を肌で感じてこられたようです。
地球温暖化対策を論じあった「京都会議」、この京都議定書に調印しなかったことで非難を浴びることの多いアメリカですが、すでに「再生可能エネルギーこそアメリカの安全保証」という認識が進んでいて、「あらゆるエネルギーを買うことを義務付ける」<バルバ法>も制定されています。
自動車の太陽電池の普及についても、まず、自動車は鉄の塊、という概念を替え、軽量化してもなおかつ安全な車を開発することによって、太陽電池も軽量化できる、ということに着目しているとか。
興味深いのは、民間がこの開発をすると、コストに跳ね上がるので、まず軍用車の開発からはじめてもらうのがいいのでは、ということになり、国防省も乗り気だとのことです。
石炭は元より、石油さえあと40年もつかどうかと言われる今日、このエネルギー問題を解決することと、地球環境を守ることが、セットで国際的な課題になっていることを考えると、この点での日本の後進性は、一体、どうしたことでしょう。
「太陽光発電」、「風力発電」、「バイオマス」あらゆる再生可能エネルギーの活用について、それぞれの地域の実情に合わせた開発を研究していることも魅力的でしたし、何よりも、先進国が資源を競うように奪い合って枯渇させ、地球環境を破壊してきたことに対し、いわゆる後進地域の発展のためにいかに有効な国際的な援助をすすめるかについても、きちんと論じられ、これこそ、グローバルな観点と思いました。
日本のODAは、ともすると大型水力発電に投資され、それが壮大な環境破壊をもたらしていることが大問題になっています。
すでにダムを壊し、河川修復に政策転換しているアメリカ。アメリカをお手本にしているはずに日本が、こういう問題に関してはまったく学ぼうとしないのは、一体どういうことなのでしょう。
それにしても、国際会議の出席者はいずれも若く、30代が中心でしょうか。頼もしい世代が確実に育っています。

予算案の修正ができるかどうかが、議会の健全性の指標か
(7月28日)
久しぶりに、出かける用事のない1日、合併に関する住民投票の結果を踏まえて、「風のたより」31号の発行を準備しようと思いながら、たまった資料の整理、手紙やメール類の整理、返信で、やっぱり1日が過ぎてしまいます。
猛暑ですが、家の中では、就寝前の小1時間、クーラーをつけるだけで過ごしています。暑くなると、ネコの額ほどの庭に水撒きし、午後1回シャワーを浴びるとなんとか過ごせます。ほんの少し植わっているだけなのに、偉大な緑の木陰に感謝です。
メールを開くと、昨日の続きのような、「虹と緑の500人リスト」の仲間からのメールニュースが届きました。
彼女は小金井市議です。小金井では、駅前の再開発に伴う2004年度の予算が否決され、急遽、市長が「市民に信を問う」と辞任して、参議院選挙と同時に市長選が行なわれました。
結果として、前市長が再任され、臨時議会で提出された「再開発」を含む予算案は再度否決、議会の6会派が提出した「修正案」が可決されたにもかかわらず、市長が認めずに「再議」となったもの。「再議」となると、今度は議会の三分の二以上の賛成が得られなければ採択されず、結果として修正予算案も否決。暫定予算のまま、9月議会にずれこむとのこと。
その経緯を示したあと、参考として、我孫子市長を訪問したときの市長のお話を紹介しています。以下、ここでも紹介させていただきます。
「我孫子市の福嶋市長は3期目、47才の若手、改革派市長の代表的な方です。
特に印象的だったのは、「与党を作らない」ことでした。全国に先駆けた自治体改革やそれらを含む予算を「根回し」も一切なく議会に提案し、すべて表で議論。
議会からまとまった訂正要求が出たり、否決されたり…
否決されればまた出し直す…
提案した議案が議会を無傷で通るとは思っていない、とのことでした。議会と首長の関係がはっきりしています。
特に予算については、首長にしか「提案権」がなく、議会には「制限付きの修正権」があります。
行政の基本となる予算はこの範囲で成立させて、市長は修正された部分について「補正予算」を提案すればいいのです。
「再議」とか「辞職-選挙」などと不穏当なことはしないで。」
昨日の研修会でも、予算に関して、「議会全体として予算要望を提出し、出された予算案には、修正案を出すべし」という話がありました。
予算審議のたびに、部分的に反対の予算がありながら、否決するわけにもいかず、という矛盾に悩んでいましたが、確かに、議会が真の住民代表としての役割を果たすとすれば、この予算審議のあり方の改革は急務と言えます。

議会活性化とは、まず常識的な運営をすることと見つけたり
(7月27日)
八潮市で行なわれた「4区市議会議長会」主催の、議員研修会に参加しました。
テーマは「地方議会の活性化に向けて」、講師が「全国都道府県議会議長会・前議事調査部長」という肩書きの野村稔氏となっていたので、正直、あまり期待せずにお話を聞いていたのですが…。
のっけから、「この暑い時期、日頃の議員活動の疲れを休めたい方は、どうか私に気兼ねせず、お休みください」という挑発。ムムム…これは、と話にひきこまれていきました。
「家庭でも、一般社会でも、質問するときは、質問する相手に向かって話すのに、なぜ、議会だけは質問する人にお尻を向けて、同僚に向かって質問するのか」
にはじまり、
「質問は疑問点を質すだけでなく、意見・提案を述べるもの」
「同じ住民の代表という立場なのだから、他の議員のした質問・発言はしない」
「読むではなく話す!」
「議員の提案した制作の実現状況を執行部に提出させる」
「住のための修正動議、付帯決議の重要性」
等々、社会常識の通用しない(いわく、「古いものを見たければ、博物館か議会へ行けと言われないように」とのこと)、現在の議会を、もっと常識的にするだけで、活性化は可能なのだと納得しました。
「持ち時間は、発言時間の最長時間」、「一問一答形式」というのも、ごくごく当たり前、とのお話でした。
この中の何点かは、すでに各派の代表者会議に提案していますが、ことごとく却下されています。今回、様々な会派の議員が一緒に同じ話を聞いたのですから、再度、提案していこうと思います。
しかし、「政務調査費は、使っただけ、その後の政策提案にどういかしたかを明らかにすることが大事」という野村氏の話をどう誤解したのか、帰りのバスの中で、「領収書なんかなくてもいいんだ」と話していた議員さんがいたので、同じ話を聞いても、受け止め方にちがいがありはしないか、ちょっぴり心配な点もあるのですが。

あわただしい帰郷の中で、旧友と飲み交わしたお酒の味
(7月26日)
24日から、亡父の三年祭のため、1泊2日のあわただしい日程で秋田に帰郷しました。
私が帰郷すると、いつもクラス会を開いてくれるのが、南中学1年1組、通称「うさぎクラス」です。
南中学というのは、旧町名楢山・築山という、城下町の中でも下級武士層と職人さんが住んでいた地区と、町医者と商家が並ぶ中通り地区、そこに私たち一家が移り住んだ牛島という、農家と新興住宅地、この三地区の小学校区が校区となっていました。
市内のほぼ中心街にある中学校です。
入学した直後の春のある日、突然1人のクラスメイトが、ウサギを二匹連れてきました。なぜ、その「パンク」という渾名の級友がウサギを連れてきたのか、今となっては定かではありません。
このクラス会に常に参加してくれる担任「ダンボ」に、「あのウサギを飼うことは、校長の許可をとったのだろか」と尋ねても、記憶はあいまいです。
しかし、校庭の一画に、突如、級友のお父さんたちの助けで立派なウサギ小屋(なんとペンキまで塗られ)が建ち、私たちは当番を決めて、ウサギの世話に明け暮れました。
そのときから、私たちは、先輩や後輩から「ウサギクラス」と呼ばれたのです。
ところで、なぜ飼うことになったのか、そのいきさつは定かではないのに、私が「オスとメスは分けて飼うべし」と主張し、「可哀想だ」との反対意見が出た、というあたりはみな覚えているのです。
私は何もいじわるで言ったのではなく、そのころ我が家では、迷いネコ、捨てネコが家の中にゴロゴロしていて(私が拾わなければ良かった、というだけなのですが)毎年春になると、生まれた仔ネコのもらい手探しに苦労していたことから、当然、ウサギが増えたら困る、という発想からの発言だったのです。
ホームルームでこんな議論をしていたとは、さぞ、のんびりした中学、と思われるかも知れませんが、実情は、1年生だけで58〜60人の16クラス、という超マンモス校での出来事でした。
入学したときから、「君たちが高校受験するころは、少なくとも一割は行く高校がなくて浪人する!)とハッパをかけられ、成績順に体育館に名前がずらりとはり出された(上位者のみでしたが)こともある、という受験戦争のまっただ中。
音楽や体育など、体育館・グラウンド・音楽室を使えるのは割り当て制で、勢い、理論の時間が多くなった、という時代です。
それでも「うさぎクラス」の結束はなぜか堅く、秋に市内の太平山にのぼったのをきっかけに、それから数年は、先輩も交えて、秋田の近隣の山歩きが恒例になったりしました。
今回のクラス会には、卒業以来はじめましての友の参加もあり、また、英語を受け持っていた5組の担任の参加もありました。
この先生は、奥様から私がピアノを習っていたことあり、高校時代に受験のための英語の個人特訓を受けたこともあり、大変お世話になった先生です。
80才を過ぎ、愛する奥様をガンで亡くされてから、お一人でお暮らしとのことでしたが、クラスの人気投票第1位だった、ダンディさは相変わらずでした。
この人気投票は、クラス新聞で行なったものでした。担任は当然、自分が一位になるという自信があったのでしょう。鷹揚に許したものの、蓋を開けてみると、ベスト5にも入らない6位。「こんな新聞、発行することまかりいならん」という担任の弾圧にもめげず、発行したのは、当時新聞委員だった私と、いつも地元で連絡役をかって出てくれている、中川くんでした。
今となってみると、皆の中には「ダンボは絶対みんなが書くにちがいない、他の先生の票が少ないと悪いから」という優しさがあって、あの結果になったのでは、と思われます。みなに怖がられたり、煙ったがられていた先生にも、ちゃんと票が入っていたのですから…。
お酒を汲み交わせば、一挙に46年前、12才だったころに戻ってしまうクラス会の夜はふけていきました。
それにしても、英語しか受け持っていなかったはずの「孝哉先生」が、皆の名前を覚えていらっしゃるのにはびっくり。「うさぎクラスは、担任していたクラスも同然だったから」とおっしゃいますが、私など60人近い級友で、記憶のない友人もいるというのに。
みんなの一致した見解は、「あのころの先生たちは、生徒同士で育ちあうことを見守ってくれた」ということです。
ところで、実家が床上浸水になったとき、玄関先までヒタヒタ水が迫ってきた段階で、私たち兄弟3人と祖母は、一段高いところにある国道の向い側にあった、同級生の農家のお宅に預けられたと、姉に聞いて判明しました。
このお宅からは、いつも産みたての卵や、とれたての野菜を分けていただき、お金を握りしめて分けてもらいに行くのが私の役目でした。何度、そのころは貴重だった卵を割って、祖母に叱られたことでしょう。
しかし、このお宅でおままごとをすると、本物の卵を使って卵焼きを作らせてくれたのも、今は亡き級友との、なつかしい思い出です。
家庭と学校だけでなく、友人、ご近所の方々に見守られ、育った子ども時代だったと実感した帰郷でした。

住居表示、少数意見を汲み上げることのむずかしさ
(7月23日)
豊春地区にある新方袋、この大字名の、八木崎駅近くの一画の区画整理が終ったことに伴い、昨年度から、住居表示の変更の話が進んでいました。
新方袋は、国道16号線を挟んで東西に広がる広範な地域にわたります。そこで、16号線より東側の区域を、住居表示変更しようとするものです。
自治会の班長説明会、班ごとの説明会、二度にわたたるるアンケート調査ののち、各班からの代表を中心とする「町名検討委員会」が設けられ、集約された「西八木崎」と決定し、区画整理の済んだ地区を西八木崎1丁目、としたのが、昨年の11月のことです。
その後、残る2丁目、3丁目も住居表示変更のため、議案が提出された今年の6月議会に、異義申し立てが出されました。
そのため、賛成・反対それぞれの口述人を招いて、本日、総務委員会の公聴会が行なわれました。
午前中は、「反対意見」の口述人の意見陳述でした。当初、18人の反対意見が提出されていましたが、本日の参加は6人の予定、しかし、実際に意見を陳述したのは4人でした。
今回の住居表示変更で、「新方領」のうち、「隅田川(現古墨田川)に挟まれた袋状の地」という、歴史的な意味も地理的な意味をもつ「新方袋」という地名が消えるのではなく、面積とすれば「新方袋」の四分の一であり、大字新方袋は残る、というものです。
しかしながら、古くから「新方袋」に済んでいた方々にしてみれば、愛着がある地名故に、なんで今さら、「西八木崎」という町名になって、隣町に編入されるような思いを味わわなくてはいけないのか、とするのも分かります。
そして、その意見が少数派であればこそ、「町名検討委員会」の中で、有名な謡曲「梅若丸」伝説の残る、新方袋一桁台の番地をもつ、16号線より西の地域から「新方袋1丁目という町名を先に使われると、上下(かみしも)逆転する」という申し入れがあったとき、「新方袋」という町名を候補からはずしてしまったことにつながるのでしょう。
午後の賛成意見の中に出てきた「住民の利便性」、これを求める声が多数となったのも、近年、次々に新しい住宅が建ち並び、最初45戸だった地域が現在800世帯余にふくれあがったことによるものでしょう。
「町名と読みが一致しにくい」、「小学校区は八木崎小学校」等の意見は分かりますが、歴史を否定するほどの決定的理由なのかどうか。
残念に思われるのは、今日の反対意見陳述が、「町名検討委員会」で結論を出した後の「住民説明会」の席上で出されなかったことです。
そのときに種々議論があれば、議会としても一考の余地はあったと思われますが、その時は異論がなかった、ということで、「住民の方々の多数の意思」を尊重せざるを得ないことになります。
議会として、少数派の意見の中でも、聞くべき意見の汲み上げを、議論の経過の中で十分検討することの難しさを痛感した1日でした。

猛暑! 生命環境を守ることが最優先の政策課題と実感
(7月21日)
昨日は、所用があって、都内に出かけました。
いつもと違う暑さにびっくり!
暑かった参議院選挙の渦中でも、木陰に入ればひんやりした風が、一時の清涼を与えてくれていたものです。それが、この暑さは一体、どうしたことだろう。
日が暮れても、一向に涼しくなりません。
帰ってニュースを見て納得。都内は39.5℃だったとのこと。気象観測所ができて以来の暑さだったそうです。テレビのニュースでは、都心で体感したのは42℃とか43℃とか言っていましたが、それも納得です。アスファルトやコンクリートの輻射熱で、実際にはそのくらいか、もしくはそれ以上の暑さだったのでしょう。
メールを開くと、新潟や福井の洪水に見舞われた方々に対する支援を要請するメールが行き交っています。 被害に合われた方に心からお見舞い申し上げたいと思いつつ、何もできない非力さを感じています。
しかし、今後、自分でもできる支援を探していこうと思います。
私が小学校入学以来過ごした秋田の実家は、秋田市内をゆっくりと縦断する大平川の近くにありながら、私たちの住宅の近辺だけぽっかり堤防のない地域になっていて、一度、大規模な床上浸水を経験したことがあります。
しかし、いまほど電化製品がなかった時代でもあり、家の中にやぐらを組んで、畳や大事な家財道具をのせてやり過ごした記憶があります。
まだ小学校の低学年だった私の記憶はあいまいで、水がひいた後の後始末の大変さもおぼろげですが、その程度でことなきを得たのは、大雨による自然増水で、ヒタヒタ忍び寄るように水嵩が増したからでしょう。
今回のように、堤防決壊によって、一気に濁流が流れ込む、という災害は、その比ではなかったと推測します。
それにしても、新潟の決壊した川の上流には、「100年に1回の洪水に備える」としたダムが2つもあったと報道されています。「ダムがあふれそうになって放流したことが水流・水の勢いを増す結果になったのではないか、との報道も。
いずれにしても、今回の洪水をきっかけに、利水目的のダム建設の流れに加速がつきそうな状況の中で、しっかりした検証が必要だと思われます。
この暑さも、夏型の高気圧にフェーン現象が重なったものといわれていますが、梅雨なのに雨がほとんどふらなかった今年の気象、そして昨夏のヨーロッパの熱波、さらに遡って、数年前のヨーロッパの洪水被害、等を考えると、異常気象に対して、真剣に取り組まなくてはならない時期だと思うのですが…。
これ以上の生命環境の破壊をいかに食い止めるのかが、全世界的な課題ではないかと思う時、「地球温暖化対策」にそっぽを向き、二酸化炭酸等の「温暖化ガス排出規制」に取り組まず、ひたすら中東の石油資源獲得に血道を上げているかのように思えるアメリカと、同盟関係があるからと手をたずさえている日本の姿は、私にはとても危険なことのように思えて仕方がありません。

多世代交流を目的にするNPOが誕生しました
(7月17日)
話は、旧谷中小学校の跡地問題を考えたことにさかのぼります。
校舎の活用の受け皿となるNPOがあればいいね、という話から、子どもたちをとりまく様々な問題に取り組んでいる団体のネットワークである「きょういく長屋」をNPOに、という動きが起こりました。
その動きは、高齢化の進む武里団地を控え、高齢の方が自主的に活動したり、介護保険を使うまでもない高齢者の支援をしたり、その中で、乳幼児からお年寄りまで、様々な人たちが交流し、支えあう活動の核となるNPOを、と広がり、4月下旬に設立申請しました。
そして6月下旬に認可がおり、正式に「NPO法人かすかべ長屋」が誕生しました。
五差路の近く、大池通りに面した、光明寺向いに事務所を借り、今日は新事務所での初の例会がありました。
収益事業と、ボランティア事業をどう組み合わせていくのか、旧谷中小学校跡地が正式に売却されることになった現在、具体的な活動の場をどう確保するかなど、難問は山積しています。
しかし、一歩一歩解決に向けて、歩んでいこうとしています。
事業計画は、これから具体的になります。あなたが地域でやりたいと思っていること、アイディアを寄せていただければ、一緒に具体化していくことは可能です。
関心のあるかた、是非、会員になってください。
連絡先は、電話048-733-1009(NPO法人かすかべ長屋)です。

「みどり」の暑い夏は終らないことを再確認
(7月15日)
「みどりの会議」の参議院議員選挙の「ごくろうさん会」が開かれました。四ッ谷の事務所は、全国から駆け付けた10人の候補者と、各選対を担った人々が100人以上も集まり、それぞれに、選挙の反省と報告を。
反省といっても、どの方も口々に「こんなに楽しく、素敵な選挙を戦えたことがうれしかった」と。
これが勝手連選挙の甘さだと、お叱りを受けそうですが、私自身、まったく同じ思いです。
最後の方になると、「まるで一人も当選者のいない反省会じゃなくて、戦勝会のよう」という感想まで飛び出しました。
破れはしましたが、組織もない選挙選、マスコミには無視され続けてまるで泡まつ候補扱いの中で、90万票あまりを獲得したことは、日本にも「みどりの党」を、という運動の歴史的な一歩であったと、みんなが確信しあいました。
中村敦夫代表委員は、珍しく「この挑戦は10年早かったのか」と弱音を吐いていましたが、皆の思いは、「いつ挑戦しても10年早い、と思うだろう。まったなしの今、立ち上がったことに価値がある、と思えるようにしたい」というものです。
正式な決定は、今しばらく時間がかかることでしょうが、それぞれの地域で「みどり」のローカルパティ−を結成し、地方から行動を起こしつつ、次の国政選挙に臨む態勢をつくろう、という方向にまとまりつつあります。
とくに、候補者の中の30代トリオの周りに集まったたくさんの素敵な若者たちが、さらに運動を進めていく原動力になってくれるはずです。
「ぼくたちの暑い夏は終らない」といったのは、小林イチロウ選対の若者達でした。
「環境」をキイワードににした「みどり」の政策は、資源も生命環境も「有限」なのだから、人間が「無限」の経済成長を求めることはあり得ない、とするものです。「Slow Small simple」は「少欲知足」であり「ほどほどでいい」とする思想でもあるのです。
私が長い間関わってきた、「障害をもっている人たちと共に地域で暮らす」という運動や、子供たちを取りまく様々な問題の解決もこの辺に糸口があると思っています。
関心のある方は是非、中村代表委員が書いた「さらば、欲望の国」(近代文芸社新書)をお読み下さい。

合併協議は白紙に戻りました
(7月13日)
参議院議員選挙と同時に行なわれた、「合併の是非を問う住民投票」では、宮代町で反対票が賛成票を上回りました。
この住民投票は、一つの市か町で反対票が多い場合は、合併は「非」となることになっています。
本日の第17回合併協議会では、その確認が行なわれました。
驚いたことに、数人の委員から、この投票結果が極めて遺憾だと、次のような意見が出たことです。
「反対の票が、一部の風によってのびた」(反対表を投じた人に対して失礼ではありませんか)
「合併は究極の行財政改革というのに、これまで1年半、協議を重ねたその労力と経費はざっと見積もっても1千万円はくだらないのではないか」(自分達の住んでいる地域の将来を十分熟慮した結果の判断を、経費がかかったからと言って否定してはいけないはず)
「土日も返上して練り上げた『新市建設計画』が否定されたことはむなしい」(委員の皆さんの努力はわかるけれど、それに対してNOという判断が示されたことを、謙虚に受け止めるべきではないのか)
協議会が終ったあと、やりきれない思いが残りました。
結局、国主導で強引に進められた今度の合併に対して、宮代の住人はNOを突き付けたのです。委員の方々が叡智を絞り、努力を重ねて進めてきた協議であっても、「宮代の町が今まで進めてきた街づくりが消えるのでは」という不安を打ち消すことができなかったことを、まず、協議会は謙虚に受け止めるべきではないでしょうか。
何よりも、住民投票は、「住民の意思と、議会、行政の判断のねじれを正すためにある」ということの本質をわきまえるべきです。
そして春日部市としては、春日部と一緒になることの不安感、それが協議が進む中で徐々に大きくなっていった、という事実を、極めて深刻に受け止めなければならない、と思っています。
今後は、今までの合併協議を無駄にしないために、協議の中で浮き彫りにされ現状の問題点をいかに解決し、求められる将来像にいかに近付けていくか。
その努力をすることで、今回の合併協議は無駄でなかった、と思えるようになるはずです。

善きことは、蝸牛の速度で動く
(7月12日)
ガンジーのことばだそうです。
「これぞ Slow Small Simple」と、みどり・山梨の金野さんからのメールが届きました。
選挙の票がすべて開き、「みどりの会議」は結局、中村敦夫代表委員の1議席も失う結果となってしまいました。
応援して下さった皆さん、そして一人から一人へと輪を広げて下さったみなさん、今一歩の所で力及ばず、大変申し訳ありませんでした。
しばしの仮眠のあと、朝からギラギラ照りつける日ざしの中、夫と二人で、団地を中心に掲示したポスターの撤去作業に。
団地の中のポスター掲示は、結局、芝生に杭で打ち込む方法しかないと知りました。今まで他の政党がやっているのを横目で見て、「いやだな」と思っていたのに…。
それでも芝の生えていない部分を選び、助っ人のIさんご夫妻の協力で立てたポスター15本をはずしながら、私たちが掲げた「みどりの旗」は、ここでおろしてはならないと、強く思いました。
結果は残念でしたが、組織も資金もなかった私たち一人ひとりが呼び掛け人となり、最終的には1000人もの呼び掛け人が、知恵を絞って、全国で「みどりの会議」と知名度の低い候補者を知ってもらおうと駆け回った17日間でした。
チラシ、リーフレット等々、選挙グッズも応援する人が買って配る、という動けば動くほど持ち出しになる選挙でした。
奇跡のような、素敵な選挙戦が繰り広げられたのです。
その結果、意外なことに知名度のある中村代表の20万4,712票に対して、「みどりの会議」という政党名で70万弱の票を獲得できました。
あと一歩、というこの結果を、そして「みどりの旗」を一緒にかかげようとして下さった90万3,773人もの人たちの思いを次につなぐために、私たちはここで、あきらめません。
どうか、同じ思いの方、これからも一緒に「みどりの旗」を支えて下さいます様、お願い申し上げます。

環境政党がつきつけた、既成政党への挑戦状、どこまで通用するのか楽しみです(7月11日)
長かったようで、あっいう間の、17日間の選挙戦が終りました。
その間、選挙以外の事は更新しようと思っていたのですが、そのゆとりもなく、連日、駆け回る日々が続きました。
改めて、お詫び申し上げます。
連日の猛暑の中、梅雨時の選挙にしては、関東地方は雨に悩まされることはありませんでしたが、ギラギラする日ざしには、正直、参りました。
その中で痛感したのは、木陰の偉大さです。木が1本あるだけで、こんなにも涼しいものか、「みどり」の力にはかないません。
今回の選挙は、また、マスコミとの戦いでもありました。以前なら、もっと、政党以外の動きも政策も、取り上げてくれたように思うのですが、今回はほとんどと言っていいほど取り上げて貰えず、「同じく一人600万円の供託金を納めているのに、なんたる不平等か」と心底憤慨しながら、マスコミに取り上げられない分、どうやったら口コミで広げてもらえるのかに苦労した選挙でもありました。
それでも、「緑の会議」の主張を一人でも多くの方に知っていただきたいと駆け回った日々は、また、楽しく、元気の出る選挙選でもありました。
日本中で同じ思いの仲間が、選挙カーで、街頭で、訴え回る様子が日々メールで報告され、勇気が湧いてきました。
組織も資金もない、市民派の選挙が、国政選挙で通用するのか、もうじき結果が出ます。
シール貼り、ポスター掲示、公選はがき等、たくさんの手助け、ありがとうございました。
手紙やメールでの御支援、励ましいただたことにも、深く感謝申し上げます。
また、暑い中、走り回っている時、冷たいお茶などのもてなしもいただき、ありがとうございました。
心から、感謝申し上げます。


<最終日は、ひたすら電車をのりつぎ、かけつけたたくさんのサポーターと「みどりの大行進」。最後の新橋駅前での、中村代表委員の30分にもわたるる演説は、感動的でした。8時を回り、サポーター一人一人を握手でねぎらう中村代表委員、なんとか再び参議院へ送りたい、と痛感しました>

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